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INTERVIEW

東京大学医学部附属病院

小児科

山口 有紗

つまずいても、何度でもトライできる社会を!

高校を辞め、英国でのボランティアや就業を経て大学受験、就職活動の結果、医学部に編入して、2014年の4月から医師として働いている、一人の20代女性がいます。「がんばりきれないときにサポートする仕組みを、日本や世界で作るのが、ここ10年変わらない目標だ」という山口先生。先生がどんな思いで活動されてきたのか、これからどんな医師を目指すのか、コーヒーを片手にぜひ聞いてみましょう!

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高校を辞め、9.11同時多発テロ事件の影響から渡英

—先生は「何度もトライできる社会を世界中で作る」という目標を10年間お持ちだとお聞きしました。はじめは何がきっかけだったのでしょうか?

中学3年ごろから心の不調をきたし、高校1年生のときに、さまざまな事情で親と住むことができなくなりました。心身のしんどさや思春期の葛藤、若気の至りなどが混ざる中で高校を退学しました。

人も怖く、光すら怖く、にっちもさっちもいかない閉塞感の中で暮らしていたとき、自分と同じように学校に通わない人たちや地域の不思議な大人たちが、私を外の世界へ連れ出してくれました。キラキラしたバイクに乗る元暴走族のお兄さんに出会い、そこでつながった人たちに誘われ、ごはんや銭湯に連れていってもらったこともありました。精神科の診察室で出会った人たちもいます。

そのつながりの中で自分ではどうしようもできない事情が重なり、がんばってもふんばっても、そのまま転げ落ちるようにしんどさが重なる人たちの姿が多くあることを知りました。同時に、どんなにしんどくても、人はこんなに優しくなれるし、あたたかなつながりが人を癒していくことも感じました。

その最中、9.11米国同時多発テロ事件が起こりました。17歳の時です。驚き、悲しみや疑問。ビルに突っ込んだテロリストたちは、どんな気持ちだったんだろう。居ても立っても居られなくなりました。そして今の自分から逃げたいという想いもあって、周りからの大反対を押し切り、親から将来の学費として渡されていたお金で渡英しました。事件が起こった米国ではありませんでしたが、とにかくこの世界の大事件を自分ごととして捉えている場所にいきたいと強く思ったのです。

—突然イギリスに渡ったのですね!現地ではどのように過ごしたのでしょうか?

英語はできないし、当然住むところも、明日からやることも何も決まっていませんでした。契約したアパートは11月でもお湯が出ず、不動屋さんと毎日闘っているうちに周りの人とも知り合いになっていきました。学校も辞めて逃げるように海外で暮らし始めた自分でも、人の役に立ちたいという気持ちが心の中にありました。そんな中閃いたのが、好きな工作を活かして、折り紙をリハビリに使うことでした。そこで片っ端から病院に「ボランティアをさせてほしい」と電話をかけ、さんざん不審がられ断られた末に、インド人のデイケアセンターでどうにかボランティアの枠に入れてもらえました。それ以来、週2−3回リハビリのときに手伝わせてもらいました。

日本では高校に通うことができなかった自分が、ロンドンでは一人でバスに乗って通う場所があることに対して、嬉しい気持ち、感謝の気持ちでいっぱいでした。

kaigai kodomo

帰国、そして京都へ

そこから、なぜ帰国に至ったのでしょうか。

数カ月後、デイケアセンターでインド人の女性が、一人切手を集めていました。脳性麻痺があり、車椅子での生活をしているその女性はまだ20歳過ぎで、両親含め家族はいないようでした。女性は「インドには、足が動かず、車椅子を買うこともできない人がいると知った。自分は働くことができないけれど、切手を集めて寄付することができる。自分はロンドンにいて、恵まれているから」と言うのです。それを聞いて、社会復帰のための居場所を見つけることに満足している自分に気づきました。

心も弱り、逃げてきたけれど、五体満足で生まれおちた自分の力を世界に還元していくには、このままでいいのだろうか、と悩みました。ロンドンに住み続けるよりも、まずは日本に帰り、自分のできることを改めて考え直そうと思ったんです。なんとなく西の方面に行きたかったのと、折角なら日本の文化を感じたいというミーハーな気持ちから、直感的に京都に住むことにしました。

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PROFILE

山口 有紗

東京大学医学部附属病院

山口 有紗

キーワードは「子ども」「つながり」「笑顔」。1984年生まれ、静岡県出身。高校を中退後、9.11をきっかけに、ロンドンのインド人病院でボランティアを行う。帰国後は京都で働きながら大検を取得し、国際関係学部で開発支援や母子保健を学ぶ。卒後医学部に編入し、現在は新米医師として毎日を送っている。将来は児童精神科医として、子どもの心身の健康を、地域・行政・教育と連携して支えていきたいという思いを持つ。

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